裸体はめぐる 裸体の部屋へ −アジサカコウジ春個展2017に寄せて−

 映画と舞台と装置と役者 − ラウル・ルイスの映画、『クリムト』と『失われた時を求めて』は、役者たちが舞台の上で、装置に困惑しながら展開する映画である。両者のテーマはおそらく忘却と回想と、夢と現である。舞台装置上で回転を強いられる役者たちは、それに戸惑いつつも、監督にたいして従順を振舞っている。それはきっと役者個々人の自由意思でもあるからにちがいない。そして登場人物の戸惑いを含んだ振舞いはすべて、監督の主観に収斂されてゆく。
 個人的、主観的な忘却と回想とのものがたりは、それを聞く者、観る者を戸惑わせるものである。けれどもなぜか唯一芸術作品の主観性のみが、普遍性を持ちうる。これが芸術の秘密であろう。ルイスの映画は、秘密を結実した高踏的芸術映画と愚考する。
 近年のアジサカコウジ個展は九州を主に経巡る。画家に意図があるかは画家の身ならぬ身の知る由もないが、画家にとって大切な箇所を経巡っていることは、たしかである。そこには旧交とあらたな出会いがいつも用意されている。それぞれの忘却と回想とが、画家を中心にロンドを踊り、その輪をひろげてゆく。
 このたび経巡る一部屋に集められた裸体の群像は、奔放に振舞う美たちである。彼女らはみな、奔放に振舞うにも拘らず、ひとつの部屋でその立ち位置で自らを演じきっている。
 表題画の女性は、フランス革命を率いたマリアンヌ(ナジャとは姉妹だそうだ)で、フリジア帽をかぶり、おそらくは民、あるいは彼女らを率いているのだろう。ただしそれは、闘いに向かう方向とは真逆の、平和に向っての仕草である。私たちの画家は、ドラクロワの『民衆を導く自由』を引用しつつ祈っている。遠い世界と近い世界で繰り広げられる忘却と回想の戯れを越えた未来へ向けて、祈りは収斂されてゆく……

今年もともに見よう、絵画はめぐるのだから。

アジサカコウジ春個展2017
『戯れに恋はすまじ』
4/28(金)まで、福岡「アンスティチュ・フランセ九州5Fギャラリー」
5/12〜5/28(会期中の金・土・日)長崎「List:(リスト)」


ナジャはしばらく旅に出る ーアジサカコウジ初夏個展2016に寄せてー

 ナジャは泣いたことがない。灯りが消えた街角で、 速いクルマに乗っけられても、 急にスピンかけられてもナジャは怖くなかった。
 18区の片隅で、アンドレに拾われて以来、 アンドレにとって希望であったナジャは、 ともに奔放に暮らしている。
 仲間の蓮っ葉娘、ナナは、 16の時に産んだルイの居場所も知らない。ミミを翻弄しながら、 ジジやペペともおもしろおかしく過ごしている。
 ふたりのしあわせのかたちは一様ではない。 今のくらしがふしあわせなわけでもない。

 そういうわけで、ナジャはしばらく旅に出る。アンドレと離れて、 仲間のナナと一緒に。ナナも、ミミやジジ、 ペペと離れて旅に出る。 ひょっとしたら旅先でルイと会えるかもしれない……

 旅先のふたりに出会ったら、こう伝えてほしい。
ナジャには花束がよく似合う。飾りではなく。ナナには、 ほんとうは海辺がよく似合う。狭いベットの灯りではなく……

 ふたりに出会ったら、こう感じるだろう。
美は痙攣的なものだろう。それ以外にないだろう。

4月29日(金)〜5月8日(日)coffon(コホン)
 福岡市中央区警固3-1-28 アーバン警固301 Tel 092-725-3711
5月13日(金)〜5月21日(日)フタバ図書バルコ新館店
 福岡市中央区天神2丁目11−1 福岡パルコ新館6F Tel 092-235-7488
5月27日(金)〜6月12日(日)List(リスト、会期中の金・土・日)
 長崎市出島町10-15 日新ビル2F Tel 095-828-1951
6月17日(金)〜7月3日(日)RE PORT(リポート、月夜・火定休)
 佐世保市万津町2-12 1F Tel 0956-76-8815

参考
エーミール・ゾラ『ナナ』
アンドレ・ブルトン『ナジャ』
井上陽水『飾りじゃないのよ涙は』

絵画と書物と雑貨と私―「見ること」と「捉えること」

 パリの動植物園は、17世紀の王立公園に由来する。ルイ王朝の盛期であって、往事ヨーロッパでは、新大陸の稀少で稀覯な動植物を蒐集し、自らの広大な土地に庭園を造り、そこに遊ばせた。権力者たちは、それらに自らの目を楽しませ、かつはまた、珍獣や百草を集められる自らの財力を誇った。ロンドン、ウィーン、ベルリン、マドリード…… 動物園は同時に、その頃興った大都市の象徴でもあった。自然豊かな土地には、動植物はあたりまえに生息する。自然を克服して開発された都市は、こんどは克服したはずの自然を自らのうちに囲おうとする。動植物園を掉尾とする庭園文化のダイナミズムはここにある。自然を模倣しようとするイギリス庭園に対して、フランス庭園の幾何学的な配置は、あたかも自然を手なずけるかのようである。
 現在のパリ動植物園は、フランス革命を生き延び今にいたる。自然を人為に取り込んで拡張してきたこのパリ動植物園を20世紀初頭、ある詩人が訪れて、檻に隔てられた囲いのなかで円環を描きながら歩みを刻む黒豹を目にした、あるいは黒豹の瞳孔が、その詩人を捉えた。「見ること」が主題の詩は、視覚が「捉える」ことの儚さと確信とを同時に歌い上げている。見、見られる関係(この関係は相互的である)の黒豹と詩人は、お互いを分け隔てる格子をもはや捉えない。お互いが見、見られることによって、両者はお互いをイメージとして「捉える」作業に勤しむ。けれども視覚において捉えられた像はむなしくはかない。「存在することをやめる」からである。しかしお互いのその像のやりとりは、一篇の詩のなかに書き留められて今なお、存在している。(ライナー・マリア・リルケ『豹』、『ドイツ名詩選』、生野幸吉他編訳、岩波文庫所収。)
 ヒトは描くモノを手に入れて以来、外部の形象を、捉えようと模倣し描き遺してきた。壁画を経て、カンバスに…… ヒトは有史以来、さまざまな外部を書物のなかに封じ込めてきた。写本を経て、印刷に付し…… この営みはさながら都市のなかに自然を取り込む営みのようである。美術館は動物園に似ている。さながら空想の動物園である。図書館(書店)は動物園に似ている。さながら空想の動物園である。
 書物に囲まれた一隅の、画家が描く黒豹とそれにまたがる一組の人間の像は、人為が加わる前の自然状態を描いているようだけれども、男は楽器を持ち、女は書物を携えている。画家が描く自然のなかには、さらに人為が描き込まれているのであった。私はそれを見た。この大きな絵画の前に、商品として並ぶ雑貨の数々…… 画家がこの度しつらえた雑貨は、見るだけでなく、身につけることができる。
 
福岡パルコ新館6階フタバ図書内“AZIZAKKA”鯵雑貨公司

古本と絵画に囲まれて ーアジサカコウジ春個展'15福岡に寄せてー

 ロンドンはチャリングクロス街84番地に宛てられた手紙には、求める古本のリストが記載されている。ただし誰にでも手が届くものに限られる。それはアメリカ大陸にはないけれども、遠く大西洋を隔てたロンドンの古書店にこそありそうな古本、稀覯本ではなく……
 アメリカ人女性作家のこの求めに、チャリングクロス街84番地にある古本屋の初老の番頭は、戦後復興の混乱と困窮の続くロンドンから応えてゆく。物理的懸隔こそあれ、両者のやりとりには作家と作品タイトルの固有名詞があって、それを介した親和性が両者のやりとりを深めてゆく、大抵は互いの信頼のなかに。時折り顧客からの苦情はあっても。
 丁寧に梱包されて海を渡って届いた古本の手触りと匂いとには、かつての所有者といまの所有者との歴史を隔てた思想的親和性があって、手に取る者たちの有していた時空は越えられる。なぜならそこには古本を介した親和力がはたらいているからである……
(江藤淳訳の同作はきりりとした文体で、素っ気なくもこころあたたまる20世紀の書簡体文学をみごとに再現している。映画版は少し劇的な脚色が気にはなるが、アン・バンクロフトとアンソニー・ホプキンスの演技には酔える。)

 古書店に入るときは、そのような出会いを求めて「行くわよ」という覚悟をもって入る。果たして意中の本に出会えることもあれば、「それもいいわね」という意外な出会いもある。もしもこういう古書店が同時にカフェでもあるのなら、追い求めてもえられない本に思いを馳せながら、アポロンよろしくダフネのお酒を飲むもよい。

アジサカコウジ春個展'15福岡『カチューシャ』
福岡市中央区警固3-1-28アーバン警固301「coffon」にて5月31日(日)まで(水・木定休)

追伸 コホンといえば竜舌蘭
テキーラベースにしてねとあの子は言った
テーブル届いた果実酒は、カチューシャからのメッセージ。
おいしゅうございました。

こわれた車輪ーアジサカコウジ春個展'15長崎に寄せてー

 エカテリーナ、カタリーナ、カトリーヌ、キャサリン、カーチャ、ケイト、キャシー、キティ……
 アレクサンドリアのカタリーナは、その信仰の篤さゆえ、聖女に列せられ、中世神学の中心を担ったパリ大学の守護聖人である。上記は聖女のヨーロッパ各国語のカタカナ表記である。カチューシャは英語の愛称キティと同じくロシア語の愛称であり、日本では髪飾りないしは髪留めとして人口に膾炙している。それはトルストイ『復活』の日本での受容の激しさを示す好例でもある。カチューシャかわいやである。
 カラバッジョの絵画にもあるとおり、カチューシャとこわれた車輪は、少年イエスと洗礼者ヨハネと羊や、聖母マリアと百合と翼と書物と同じく図像学的典型のひとつである。カチューシャの信仰の純粋は、彼女の罪と罰に使われた磔刑の車輪をもこわすほどゆるぎないものであった。
 アジサカコウジのカチューシャたちは、見つめているのであろう、ぼくらに罪はないのかと……  裁きではなく、憐れみと寛容のまなざしで問いかける絵画たちの集いが、日本の殉教者の純粋の地にて開かれていると風のうわさに聞く。

アジサカコウジ春個展'15長崎『カチューシャ』
長崎市出島町10-15日新ビル2F「PÚBLICO」にて3月16日(月)まで

 

見よ、それは極めてピリカ。

 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光りあれ。」こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。〔……〕神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。(日本聖書協会編『聖書』新共同訳)
 『創世記』第一章はこうはじまり、こうおわる。生物の創造は六日目の大仕事だった。だから七日目は安息なさったのである。(『創世記』第二章)日曜日が週のはじまりなのは、ヒトが誕生してから最初の日だからであり、その日が安息日なのは、神の行いを模しているからである。人間はそもそも神の似姿にすぎず、神に連なるのではなく、神からは切り離されている。だから神を崇拝してやまない。安息日には儀式を通じて神を敬うし、罪を犯しては神を畏れる。近寄りがたいのが神である。
 神に比べると、神々は、身近に過ぎる。来てもらわなくてもよいのにやってきては、ちょっかいを出す。ちょっかいの結果、ヒトは神々の逆恨みを蒙ることとなる。鷹に追われた白鳥に化けてゼウスはレーダーと睦み、ヘーレナーを儲ける。この娘がトロイア戦争を引き起す原因となったのは周知のことである。どんなに口説いても落ちない貞節なアルクメネーと、戦地へ赴いたはずの夫アンフィトリュオーンに化けて交わったゼウスは、ヘーラーの嫉妬を買って、生まれた子ヘラクレスには十二の難行が課されることになる。子だくさんの河神アーソーポスは、娘をひとり残らず神々の餌食にされたが、そのうちのひとりアイギーナをゼウスに攫われたばかりか、その行方を探す最中、岩に化けたゼウスに騙され、不意打ちを食らってゼウスの雷を浴びることとなる。不憫である。ゼウスが化けた岩はその後、シーシュフォスの劫罰に使われたとされるし、アイギーナの子アイアコスは生れ出ただけなのにヘーラーの怒りを買い、治める島民は飲み水を奪われ苦しめられる……
 万物の上に立つ君臨する神と、万物に介在してことあるごとにちょっかいをかけてきた神々との違いこそあれ、自然の営為やヒトの感情の不思議を、おそらくはこうやって説明してきた神話や宗教は、あらゆる現象を良しとしてきたのである。こたびの六十点もの絵画の創造主アジサカコウジは、それをピリカと名づけられた。見よ、それは極めて良かった。
 
アジサカコウジ冬個展2014『ピリカ』
新天町商店街「ギャラリーおいし」にて12月21日まで

かはたれ、たそがれ、森の空き地

 カオスから生まれた兄エレボスは冥界を司り、妹ニュクスは夜を司る。この兄妹の交わりから昼を司るヘーメラーが生まれた。ニュクスとヘーメラーの母娘は、交代で世界を駆け回る。これが昼と夜の神話的な説明である。朝な夕なのひかりと闇のあわいは、母娘が交代のわずかなあいだ、ともに過ごすひとときである。したがって、ひかりと闇のあわいを名指す西洋のことばには、朝の薄明であろうと、夕の薄明であろうと、ひとつのことばしかない。フランス語ならば、crépuscule、ドイツ語ではDämmerung、英語はtwilight(この際dawnは無視しておこう)など。
 日本語の黄昏(たそがれ)はもともと、「誰ぞ彼」(たれぞかれ→たそがれ)に由来し、ひかりから闇への移ろいを指し、「彼は誰」(かれはたれ→かはたれ)は、闇からひかりへ、闇をひかりが押しのけてゆくときを指していたという。二つのことばの力点は異なり、彼は「あれ」であるから、ひかりと闇のあわいに認められる影は、夕暮れの移ろいでは「誰、あれは」であって人影と明らかである。闇へと消えゆくからである。一方で、明け方の移ろいでは「あれは、誰」であって影から人影を認めるまでにひと呼吸を要す。闇から何かが浮かび上がり、人影となり、人とわかるからである。ひかりと闇のあわいに認められる人影から日本語は夜への推移と朝への推移を区別した。
 険しい森に分け入ったとき、木々の葉に覆われてひかりを遮蔽された空間に、ひとは不安を覚える。その森の冒険にあたって、ひかりが漏れているのを遠くに認めるとそこへひとは足早に急ぐ。大海を冒険するオデュッセウスが、島を見つけたときのように…… 森の空き地には切り株があって、葉がひかりを覆いきれず、切り株を照らしている。辿り着いた冒険者は、その切り株にはつい今しがたまで、誰かが座っていたのではないかという思いにとらわれ、安堵の軽い目眩のなか、気配を感じ、幻影をみるのである。この森の空き地をドイツ語でLichtungといい、ハイデガーがこの現象を語っている。LichtungとはLicht(ひかり)を動詞化したlichten(照らす)から派生した動名詞であって、照らす動作をあらわすこともあれば、照らされた対象をあらわすこともある。木漏れ日から照らされた「森の空き地」Lichtungの由来がここにある。
 カンヴァスに描かれる人影にはあわく色彩が載せられている。背景は森のなかであろうか、海辺であろうか、かはたれであろうか、たそがれであろうか、絵は観る者に問いかける。輪郭は朧であって、はたしてそこにいるのか、あるいはまた、はたしてそこにいたのではなかったかと、ひかりと闇のあわいのなかで、目眩のなかに幻影を映してくれている絵が今、波間にゆらゆらと浮んでいる。
 
「藪直樹展」福岡市中央区長浜 l’onde にて、11/15(土)まで。

むすぶ、ほどく、かける、はずす、とじる、あける、つつむ、ひらく ー プッタネストコンタウロスキーペスタロッチィ王子さまと考える。

 日本文化は包む文化だといわれる。風呂敷がその例である。一枚の布にすぎないものが、ありとあらゆるものを包む。弁護士は書類を、粋人は茶道具や着物を包んで持ち歩く。物置では埃がかぶらないようにかける。行楽期にはお重を包んでは出かけ、開くとそこが食卓にかわる。包む文化は開く文化でもある。
 割れ物には幾重にも布を巻いたり、綿を詰めたり、新聞を丸めて詰めたり、しわくちゃにしてくるんだり、工夫を凝らして包んでいた。昭和中期まではそうであった。高度経済成長期を経験した者たちは、あるとき驚愕する。空気が割れ物を包むのである。気泡緩衝材、プチプチの登場である。高度経済成長期の子供たちは割れ物を包むプチプチを、玩具とした。ただひたすら潰すのである。時には雑巾のように絞り、連続する破裂音に薬師丸ひろ子のように快感を覚えたものである。(長崎人にとっては原田知世であろうか。)
 プチプチもデジタルな時代になると、擬似体験できるいわゆる玩具も発売されるようになった。包む文化圏、日本はここまでやってきた。
 プッタネストコンタウロスキーペスタロッチィ王子さまは、フランス人のようであり、ポルトガル人のようであり、日本人のようであり、ロシア人のようであり、イタリア系スイス人のようでもある無国籍の王子さまである。愛称をプッチィという。星の王子さまのように、プチがつく。二つもつく。プチプチプッチィである。彼と出会ってふと、上のようなことを考えた。
 プッチィ王子には、気泡緩衝材を日本で初めて商品化した川上産業のWebサイト「プチプチ文化研究所」にて出会うことができる。

廃墟としての海へプロメテウスに会いにゆく―松本學油絵個展に寄せて(2)―

 廃墟は、精神と自然が折合いをつける場所だとG.ジンメルは言う。自然を克服しようと重力に逆らって高い塔を建てる人間の精神は、克服を実現したかに思えた。けれども、時間は容赦ない。自然から切り出した塔の素材はやがてどんなに強固な石であっても、またそこから精製した強靱な鉄であっても朽ち果てゆく。人間はそれでもめげなかった。
 ノアが方舟で人間を救出し、エピメテウスもそれと同時期に方舟で人間を救い、時代は下って英雄オデュッセウスが木の舟で冒険をし、プロメテウスの苦しみに参拝した。それから数千年ののち、人間はまた重力に抗って海に、鉄の船を浮かべた。かつて人間に火を授け永劫の罪に今なお身を挺し続けるプロメテウスに再び会いにゆくため、感謝を告げるため。鉄の船もしかし、時間には抗えない。いつしか自然と折合いをつける……
 海という自然は、その塩で人間に重力に抗いやすく力を貸してくれる。それはゼウスさながらの自然の欺きかもしれない。人間は騙されているとわかってはいても信じるようにつくられた。プロメテウスに会いにゆくために、また船を出す。船出には決まって祝杯をあげる。ディオニュソスに唆されて酒を酌み交わし、プロメテウスの苦しみを模倣する。宿酔は朝起きるのが辛い。ミスターGが耳もとで囁くからである……
 役目を終えた廃船をも浮かべる廃墟としての海を描き続ける松本画伯は、ミスターGに相対するために、毎夜枕元に帽子を置くという。そしてミスターGが囁き始める朝まだき、抗うために帽子をかぶる。そしてすっくと立ち上がるのであった。珈琲を沸かし、絵筆を執る。そして船と海と人とを描く。画伯流のミスターGとの対話である。これが画伯の儀式である。これが画伯の日課となった。
 ミスターGは、人間が人間であることを試してくれる根源的な力である。人間が立ち上がり、そして屈し、敗北に折合いをつけてまた、立ち上がるために。人間の生命の輪はいつも、閉じるかに見えてまた、開かれる。私たちはそうやって生きてゆく。ミスターGとともに。
 
松本學油絵個展 珈琲処おがた(福岡朝日ビル1F)にて25日まで

プロメテウスは二日酔い―松本學油絵個展に寄せて(1)―

 人間に火を贈ったことで、ゼウスにとがめられたプロメテウスは、行動する前に熟慮する神であったといわれているが、考える前に行動する神だったように思われてならない。ゼウスをはぐらかすことができると思い込んで、ついつい行動してしまう早とちりの神である。この神から人間は、火を賜った。
 弟のエピメテウスは、行動したあとに考える神で、くよくよ後悔する神であったらしい。けれども、後悔が怖くてなかなか行動できない神であったように思われる。兄はすでにゼウスの劫罰に苦しんでいるが助けることはできない。助けてよいものか分からずに、苦しむ兄をただただ見つめている。
 劫罰を受けつづける兄プロメテウスの罰は、岩に張付けられ、日のあるうちはその肝臓を鳥たちに啄まれる痛みであるという。けれども日が没すると、翌日の苦しみのために、肝臓はすっかりと治っている。明日朝からは苦しみがまた襲いはするけれども、もう苦しみも痛みもない。元気はつらつである。従って今宵も楽しもうではないか…… 酒ハウマイシ姉チャンハキレイダ! これがプロメテウスの正体である。そんな兄さんがうらやましいエピメテウスでもあった。飲んでおけばよかった……
 プロメテウスのおかげさまである人間は、たくさんの賢人を世に出している。けれども、いまだ二日酔いに管を巻くのは、神話の時代からの劫罰である。朝起きるのはつらい。起きて待つはいつもの苦しみ、お仕事である。しかもなお昨夜もまたやってしまった。鳥に啄まれているかのようである。けれども人は起きる。なぜか。これはおそらくミスターGが存在するせいでもある…… つづく
 
松本學油絵個展 珈琲処おがた(福岡朝日ビル1F)にて25日まで


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